鎌倉時代に源頼朝に仕えた相良長頼が入城し、明治まで670年間、35代にわたり人吉球磨を治めた相良氏の居城跡地。
本丸に天守は存在せず、2階建ての護摩堂(祈祷所)があり、二の丸に御殿が配された梯郭式の平山城です。
江戸時代には2度の大火事に遭い、城内の多くの建物が焼失しました。
西南戦争で西郷軍の拠点となり、再建された建造物もほぼ焼失しましたが、1961年には国指定史跡となり、その後、隅櫓、大手門脇多聞櫓などいくつかの櫓や門、土塀などが復元され、現在は北西麓には球磨川を望む人吉城公園として整備されています。
「武者返し」と呼ばれる石垣は、最上部に敷かれた石がせり出している形状で、西洋の築城技術である「槹出(はねだし)工法」が用いられており、国内では函館五稜郭や品川台場、龍岡城(長野県)で採用され、旧来の城郭での採用は人吉城のみとなります。
別称:繊目城・三日月城・球麻城