1601年、初代藩主島津家久が建設に着手した居城。77万石という大大名でありながら、天守閣を備えることはなく屋形づくりとしたのは、幕府に対する恭順の意思表示や「城をもって守りと成さず、人をもって城を成す」という薩摩藩流の思想からと言われています。
「切り込み接ぎ」で積んだ石垣の鬼門にあたる北東の角には、災い除けと考えられる「隅欠(すみおとし)」が残されています。
城のシンボルである御楼門は、二重二階造りの屋根に青銅製の鯱を上げた高さ・幅ともに約20mもある国内最大級の城門で、1873年に火災によって焼失しましたが、2020年、約150年ぶりに復元されました。
地元では一般的に古くから「鶴丸城」と呼ばれ親しまれており、その由来は、屋形が羽を広げた鶴のような形状であったと言われています。
別称:鶴丸城