1585年、豊臣秀吉に仕えていた筒井定次が、大坂城を守る出城として三重の天守を築城。
秀吉の死後には、家康の命によって「築城の名手」と称された藤堂高虎が、大坂城攻めの拠点として、1611年に本丸を拡張するなどの大改修を開始しました。
現存する高石垣は、大坂城方面である西側の防衛性を高めるために作られ、国内では、大坂城に次ぐ約30mの高さを誇り、総延長は368mに及ぶ壮大な高石垣です。
大坂の陣で豊臣氏が滅んだことで、改修工事は中断され、建設中の五重の天守は長年未完成のままでしたが、現在は、1935年に地元の代議士の私財で建てられた、木造三重大天守と二重の小天守の模擬天守が「伊賀文化産業城」という名称で残っています。
石垣の縁には一部フェンスがないため、石垣の上から、お堀の外からと、あらゆる角度からその迫力を体感できます。
別称:白鳳城